円覚寺から鎌倉街道を鎌倉市街地方面へ向かうと途中に東慶寺がある。臨済宗円覚寺派で山号は松岡山(しょうこうざん)。正式には東慶総持禅寺という。付近を松ヶ岡と呼び、よって東慶寺のことを松岡御所と呼ぶこともある。「縁切り寺」、「駆け込み寺」の名で有名である。本尊は釈迦如来で、他には水月観音像、地蔵菩薩像などがある。開山は覚山尼(かくさんに)。覚山尼は安達義景の娘で鎌倉幕府八代執権北条時宗の妻である。開基は北条貞時。覚山尼は夫時宗とともに弘安七年(1284)に無学祖元を師として出家した。鎌倉時代の東慶寺の姿はあまり明らかではないが、後醍醐天皇の皇女用堂尼や足利氏の娘たちが代々住して以降、尼寺として発展し、鎌倉尼五山の第二位にもなった。


本堂

 足利氏が衰退した後も小田原北条氏の庇護を受け、江戸期には豊臣秀頼の女で千姫の養女の天秀尼が入り、徳川家康によって伽藍が整備された。東慶寺は「縁切り寺」として有名である。離婚の権利が夫にしかなかった江戸時代に妻が特定の尼寺に入り、3年間にわたりそこで尼として奉公することで離婚できるという当時の特殊な慣習があった。この特定の尼寺に指定されたのが「縁切り寺」で鎌倉の東慶寺と上野国(今の群馬県)新田の満徳寺がそれにあたった。縁切り作法は覚山尼が作ったといわれ、寺の開創当初よりあったといわれる。実際には江戸中期以降、藩や幕府で離婚に関する制度整備が進み、「縁切り寺」は徳川家ゆかりの寺に、古い慣習や寺法がそのまま継続して認められていたものであったらしかった。 裏手の墓地には西田幾太郎、和辻哲郎、鈴木大拙などの墓がある。


松ヶ丘宝蔵
撮影日:2011年2月
鎌倉市山ノ内
(鎌倉郡山之内村)


位置

参考文献

井上禅定『東慶寺と駆込女』(有隣堂、1995年)
(ジャパンナレッジ版)『日本歴史地名大系』、平凡社
(ジャパンナレッジ版)『国史大辞典』、吉川弘文館

2012/02/02 UP
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