下馬四つ角からJR横須賀線の大町踏切の手前にあるのは延命寺である。裏手を滑川(なめりがわ)が流れる。浄土宗で山号は帰命山(きみょうざん)。もと安養院の末寺。開山は専蓮社昌誉能公(せんれんじゃしょうよのうこう)。本尊は阿弥陀如来。北条時頼の夫人が建てたと伝える(参考『かまくら子ども風土記』)


本堂

 本堂内には本尊の阿弥陀如来像、観音菩薩像、地蔵菩薩像がまつられている。地蔵菩薩像は北条時頼夫人の守り本尊で別名を「身代わり地蔵」と呼ばれる。それは、ある日、北条時頼夫妻が双六で負けたほうが裸になるという賭けをやった。この勝負は時頼夫人のほうが旗色が悪く、負けそうになったとき、夫人は日頃信仰する地蔵菩薩を念じたところ、地蔵菩薩が裸で双六盤の上に立って夫人を救ったという。それから夫人は地蔵菩薩をいっそう信仰し、この地蔵像を作らせたという。この地蔵像が裸で女の姿をしているのはそのためであるという。普段は法衣を身にまとっている。この像は女性の姿をした珍しいものであるためか江戸へ出開帳(でがいちょう、寺院の本尊や秘仏を他所で開帳すること。寺社の修繕費や経営費を得るための方法でもあった。)を行ったこともあったという。しかし、やはり裸体の女性像には様々な意見があったと言えよう。『新編鎌倉志』には「総じて仏菩薩の像を裸形に作る事は、仏制に於いて絶てなき事也とぞ。人をして恭敬の心を起さしめん為の仏を、何ぞ猥褻の体に作るべけんや」(すべての仏や菩薩の像を裸形に作ることは仏の教えにはまったくないことである。人のつつしみ、敬う心を起こすための仏を、どうして猥褻な体に作ることがあろうか。)、『鎌倉攬勝考』には「不敬の形に造り、仏を玩戯にするにやあらん。信じがたし。」(不敬の形に作って仏を玩戯にしたのであろうか。信じがたいことだ。)と江戸時代の地誌には評判が悪い。ただ、このような仏像は鎌倉には他にもある。
 また、赤穂浪士のうち岡島八十右衛門の三男が住持の時があったと伝え、その住職が書いた『義士銘々伝』や義士の画像(現存せず)がある。

撮影日:2010年11月19日
鎌倉市材木座1丁目
(鎌倉郡乱橋材木座村)

大町踏切 本堂 本堂

位置

参考文献

『鎌倉市史』社寺編、吉川弘文館、1954年
『新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』、雄山閣、1958年
『かまくら子ども風土記(改訂十版)』、鎌倉市教育委員会、1991年
『鎌倉の寺』、かまくら春秋社、2001年

2010/11/28 UP
2017/07/28 CSS改修
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