二階堂の鎌倉宮より北側の薬師堂ヶ谷の谷の最奥部にあるのは覚園寺である。古義真言宗泉涌寺派で、山号は鷲峰山(じゅうぶせん)。寺号は正式には真言院覚園寺である。開山は智海心慧(ちかいしんえ)、開基は北条貞時。本尊は薬師三尊坐像。かつては真言・律・禅・浄土の四宗兼学であったが明治初年に兼学が禁止され、現在は真義真言宗である。
北条義時が建保6年(1218)7月に同地に建立した薬師堂(新御堂)(『吾妻鏡』)がその前身と見られる。その後、大倉薬師堂は北条時宗によって修理と真言供養が行われた。


覚園寺の山門

 覚園寺の前身の大倉薬師堂にまつわるものとして『吾妻鏡』に次のような話がある。
 義時が見た霊夢とは、その年の7月5日に鶴岡八幡宮で実朝の拝賀があった時、式が終って帰って寝ていた義時の夢の中に信仰する薬師如来の眷属(けんぞく:仏や菩薩に付き従う従者)の十二神将のうち、伐折羅(ばさら)神将(戌)が現れ、「今年の拝賀は無事にすんだが、来年は共をしてはいけない」と言った。これを信じた義時は、自分の館の近くの山である鷲峰山麓の大蔵に薬師堂を建立することにした。弟の時房や息子の泰時は農民の負担が大きくなるから中止するように諌めたが、義時は私財で建立するから迷惑はかけないとして、結局薬師堂は建立された。そして、翌年の正月の実朝の右大臣拝賀式で義時は、将軍の剣を捧げ持って供をしたが、楼門の付近で義時は俄かに気分が悪くなり、また夢のお告げもあったので、剣を源仲章(文章博士)に譲って帰宅した。その後、実朝は暗殺され、一緒にいた源仲章も公暁らに斬られたので、義時は危機を間一髪のところで逃れたという。その後、二月八日に義時は大蔵薬師堂に参詣すると、僧侶が不思議な話をした。実朝が暗殺されたその当日のその時間にお堂の十二神将のうち、戌神将(伐折羅神将)の姿が見えなかったと言う。故に義時はますます信仰を深めたと言う。
 この義時と十二神将の伝説を持つ大倉薬師堂が覚園寺となったのは永仁4年(1296)のことで、時の得宗・北条貞時によってである。これは蒙古襲来による異国撃退と朝廷鎮護のためであった。薬師堂時代より律宗との関わりがあった覚園寺は、北条氏の招きで泉涌寺の開山俊じょうが下向して以降は、北京律の関東の拠点となっていたものと見られる。覚園寺は鎌倉時代には大寺院となっていたらしく、宝篋印塔、灌頂堂、護摩堂、光明院、仏殿、法堂、土地堂、祖師堂、僧堂、庫裏、山門、両廊などの伽藍があった。元弘の乱以後も後醍醐天皇から勅願寺に指定され、寺領を安堵された。建武四年二月には火災にあっているが、足利尊氏の援助で復興し、文和三年(1354)には仏殿が完成している。天井の梁牌(りょうはい)に平和祈願の言葉とあわせて尊氏の署名が残っている。中世期には上総・武蔵・越中・相模・越後・上野などの国に小さな所領が点在していた。
 尊氏以降も歴代の関東公方や小田原北条氏の保護を受けた。しかし、江戸後期にかけては地震や火災の被害などで衰退し、無住の時代がしばしばあった。戦後直後には特に荒廃していたようで「鎌倉一の荒れ寺」と呼ばれていたらしい(参考:『覚園寺と鎌倉律宗の研究』)。これを再興させたのは故大森順雄師であり、薬師如来や十二神将の修理や寺史の研究など現在の覚園寺の寺観復興を成し遂げた他、鎌倉市の文化財保護にも尽くされた。
 現在の伽藍は薬師堂(仏殿)・地蔵堂・愛染堂などである。本尊は薬師三尊座像。十二神将立像やもと大楽寺(廃寺)の阿閃如来(あしゅくにょらい)座像、旧理智光寺の本尊阿弥陀如来座像、愛染明王座像の他、「黒地蔵」の別名と縁日で有名な地蔵菩薩立像がある。薬師堂の十二神将立像は、現在の作品は室町時代のものであるが、当初の像は鎌倉地方において模刻対象の規範像となったと考えられている。現在、覚園寺十二神将のもっとも早い時期の模刻で現存するものは辻薬師堂の十二神将のうちの八躯である。
 境内奥の地蔵堂に安置されている地蔵菩薩像、通称「黒地蔵」には、地獄で焼かれる罪人の苦しみを少しでも和らげるため、鬼に代わって火を焚いたという伝承が残る。ために、この地蔵は何度彩色をしなおしても、一夜で黒くなるという。毎年8月9日の深夜から行われる黒地蔵縁日には、深夜にもかかわらず多くの人々が集まる。
 境内最奥の墓地にある二基の大宝篋印塔は、開山塔・大燈塔と呼ばれている。開山塔は開山心慧智海、大燈塔は覚園寺二世、泉涌寺九世の大燈源智の墓塔であることが銘からわかる。両塔とも関東形式の大宝篋印塔で関東大震災で損傷し、昭和四十年(1965)に解体修理された際に骨蔵器などの納置物が見つかっている。国の重要文化財に指定。一般の人は見ることはできないが、写真は国宝館図録等で見ることができる。
 境内にある旧内藤家住宅は市内手広から昭和五十五年(1980)に移築され、県の重要文化財。なお境内は国の史跡に指定されている。付近一帯の地名、薬師堂ヶ谷は覚園寺の前身、薬師堂に由来しており『吾妻鏡』にもたびたび登場する。また境内内から鷲峰山にかけての斜面には非常に多くのやぐらがが存在している(百八やぐら)。境内は国史跡に指定されている。


撮影日:2005年3月13日
鎌倉市二階堂
(鎌倉郡二階堂村)

境内 山門 覚園寺近く天園ハイキングコース入り口にある庚申塔

位置

参考文献

『鎌倉市史』社寺編、吉川弘文館、1954年
大森順雄『覚園寺と鎌倉律宗の研究』、有隣堂、1991年
『かまくら子ども風土記(改訂十版)』、鎌倉市教育委員会、1991年
『特別展 薬師如来と十二神将 (旧辻薬師堂諸像修復完成記念)』、鎌倉国宝館、2010
(ジャパンナレッジ版)『日本歴史地名大系』、平凡社
(ジャパンナレッジ版)『国史大辞典』、吉川弘文館

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