岩船地蔵堂の角を曲がって直進するとほどなく薬王寺がある。日蓮宗で山号は大乗山(だいじょうさん)。もと広島国前寺の末寺。開山は日像。中興は日達。本尊は釈迦如来。他に日蓮上人像、日像上人像、観音菩薩像などがある。この日蓮上人像は、上半身裸で法衣を着せ、口を少し開けた状態の像という珍しいもので、六月・十月に更衣式が行われる。薬王寺はもと夜光山梅嶺寺と称する真言宗の寺であった(『鎌倉攬勝考』)。一方、『新編鎌倉志』の「梅立寺」の項によれば寛永年間に昔夜光寺のあった地に不受不施派の僧侶が創建したが、その後弾圧を恐れ、「新義の悲田」と号し、寺を薬王寺に改めたと伝える。薬王寺や夜光寺、梅嶺寺などの関係はよくわからない。


本堂

 寺伝では永仁元年(1293)、日像上人がこの地に訪れ、この寺の住職と法論をした末、日蓮宗になったという。日像上人は、日蓮の弟子、日朗の高弟であった。江戸幕府三代将軍徳川家光の弟忠長の供養塔が建てられたため、一時は広い寺領や伽藍があり、かなり栄えた。忠長は駿府の藩主で二代将軍秀忠の三男であったが、改易され、寛永十年(1633)に幕府の命により自害させられたのだった。ともあれ徳川家との縁があった関係上、薬王寺は格式高い寺になったようである。しかし、享保五年(1720)の火災で伽藍が焼失すると、以後はすっかり寂れてしまった。明治時代は廃仏毀釈によって寺が荒廃し、無住の時代が五十年以上続いた。大正三年(1914)に、見かねた五十世日振上人(にっしんしょうにん)が復興に尽くし、五十一世日照上人と二代、七十年にかけて復興を続け、現在に至る。境内には本堂、鐘楼、庫裏などがある。また境内墓地には伊予松山城主蒲生忠知(がもうただちか)の妻と娘の宝篋印塔がある。忠知は蒲生氏郷の孫である。

撮影日:2009年12月17日
鎌倉市扇ガ谷3丁目
(鎌倉郡扇ヶ谷村)

入口 入口 参道 参道 鐘楼
本堂 鐘楼 境内 境内墓地 境内墓地
境内やぐら 境内墓地 歴代住持墓地 歴代住持墓地 宝篋印塔
境内墓地
宝篋印塔

位置

参考文献

『鎌倉市史』社寺編、吉川弘文館、1954年
『新編鎌倉志・鎌倉攬勝考』、雄山閣、1958年
『かまくら子ども風土記(改訂十版)』、鎌倉市教育委員会、1991年
『鎌倉の寺 小事典』、かまくら春秋社、2001年

2011/01/13 UP
2017/08/01 CSS改修
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