針磨橋から江ノ電の稲村ケ崎駅の方向へ線路沿いに進み、踏切を越えて海へ向かうと途中に十一人塚と呼ばれる塚がある。傍らには石碑が立っており「(田辺松坡(しょうは)選ならびに書)元弘3年(1333)5月19日、新田勢の大館又次郎(正確には次郎)宗氏を大将に極楽寺口より鎌倉に攻め入ろうとした時、敵中より本間山城左衛門が手勢を率いて大館の本陣に切り込んだため、宗氏ら主従11名が戦死した。そこで遺骸をここに埋め、十一面観音像を造り、その英魂を弔った。これを十一人塚と称したという」といった意味の言葉が刻まれている。



十一人塚

 ここは元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めの際、幕府軍との戦いで戦死した大館宗氏以下十一名の武者を葬り、十一面観音堂を建てた場所とされている(『新編相模国風土記稿』、『新編鎌倉志』)。鎌倉攻めの際、義貞の軍勢は極楽寺坂、化粧坂、巨福呂坂の3方面から鎌倉に攻め込んだが、いずれも幕府軍の守りは固く、激戦となった。極楽寺坂の戦場でも大館宗氏らは幕府軍の本間山城左衛門の攻撃にあって戦死した。この十一人の話は『太平記』などには出てこないので、この伝承は後の世にできたのであろうか。なお、塚の位置はかつては長谷の御霊神社の近くにあったが、江戸時代に大館氏の子孫と称する人によってこの地に移されたという。

撮影日:2011年1月26日
鎌倉市極楽寺3丁目
(鎌倉郡極楽寺村)


位置

参考文献

稲葉一彦『「鎌倉の碑」めぐり』(表現社、1982年)
奥富敬之『鎌倉歴史散歩』(新人物往来社、2001年)

2011/04/16 UP(暫定)
2012/01/26 UP
2017/07/23 CSS改修
▲非表示