由比ガ浜通りを長谷の方向へ行くと鎌倉彫りの店「寸松堂(すんしょうどう)」の特徴的な建物が見える。「寸松堂」の横の小道を進むと、塔之辻の碑がたっている。碑には「佐々目ヶ谷の東南にあたる路傍に古い塔がたっている。辻に塔があるために「塔の辻」と言っている。伝えるところに昔、由比の長者太郎太夫時忠の愛娘が3歳の時、鷲にさらわれ、追い求めたが、帰ってこず、父母の悲痛な思いは大変なものであった。(時忠は)(路傍に)散見する骨や肉を見るとわが子の骨、わが子の肉かと思い、その場所に塔を建てて、これを供養し、菩提を弔ったので、鎌倉のあちこちに塔の辻というところができた。ここもその一つであるという。また別に言うところには昔の道標であろうとも言われているが、本当のところはわからない」といった意味の言葉が刻まれている。


塔之辻

 塔之辻とは、もともとここの地の名ではなく、小町の筋違橋の近くであったとみられ、『吾妻鏡』に多く登場する。執権邸や御所の近くで幕府機関が集中する重要な地であったのであろう。 後の時代には他にも塔の辻と呼ばれる場所がみられるようになり、7か所あったとみられる。江戸時代の『鎌倉攬勝考』には塔の辻に関して次のような伝説が記されている。昔、由比の長者と呼ばれた染屋太郎太夫時忠の3歳になる愛娘が、由比ガ浜で遊んでいたところ、鷲にさらわれてしまった。周りの者たちがかけよったときには鷲は大空高く舞い上がっていた。時忠はたいそうに悲しみ、せめて亡骸でも探そうとしたが、見つからず、道にある誰のものかわからない骨や肉片を見ては、これは娘のものかもしれないと塔を建てていった。このため7ヶ所に塔ができ、これらを塔の辻と呼ぶようになったというものである。これに関連する話は鎌倉の各地に残っており、旧頼朝法華堂の如意輪観音像、二階堂のお地蔵様、六国見山の稚児墓などにこの話が出てくる。
 いまはここ由比ガ浜のものが、塔の辻と呼ばれており、石碑もここに立っている。なお、由比ガ浜郵便局の近くに小さい五輪塔の一部が積まれている。由来はよくわからないが、もしかしたら由比ガ浜の塔の辻の「塔」は、これなのかもしれない。

撮影日:2011年2月22日
鎌倉市笹目町


位置

参考文献

稲葉一彦『「鎌倉の碑」めぐり』、表現社、1982年
『かまくら子ども風土記(改訂十版)』、鎌倉市教育委員会、1991年
(ジャパンナレッジ版)『日本歴史地名大系』、平凡社

2011/04/16 UP(暫定)
2012/01/17 UP
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