安国論寺の山門前には「日蓮上人草庵蹟」の石碑が立っている。碑には「建長5年(1253)、日蓮上人が安房国・小湊より来てこの地に小さな庵を営み、初めて法華経の首題(題目のこと)を唱え、正嘉元年(1257)より文応元年(1260)まで岩窟内に籠り、立正安国論一巻を著述したのは即ちここであるという」といった意味の言葉が刻まれている。


日蓮上人草庵蹟

 「立正安国論」は文応元年(1260)に日蓮が前執権北条時頼に提出した文書で、この中で日蓮は度重なる災害は、人々が正しい教えである法華経に背き、邪悪な教えである浄土教に帰依したためであるとして、このままでは内乱と外国からの侵略を受けるであろうとし、正法たる法華経への回帰を求め、それが成されれば国家は安穏になると提言している。
 日蓮はこの「立正安国論」を得宗被官(北条家嫡流の家来)である宿谷(宿屋)光則を通じて、当時の執権である北条長時ではなく、前執権の時頼に提出しているのだが、これは当時の最高権力者が長時ではなく、時頼であったことを日蓮も認識していたということになろう。時頼は一応、日蓮と会見したのだが、日蓮の論は受け入れられずに浄土教側の反撃と幕政批判と捉えた幕府首脳部によって、日蓮はこの後、伊豆・伊東に流罪となった。弘長3年(1263)に許されて日蓮は再び、この地に帰ってくるが、やがて蒙古との緊張状態が切迫化してくると、北条時宗の政権は国内体制の強化に乗り出した。その中で反体制者とみられた日蓮やその信者たちへの弾圧は激しさを増し、日蓮自身も文永8年(1271)、竜の口で斬首されそうになった後、佐渡へ配流となった。しかし、蒙古との緊張や北条時輔の反乱(文永9年の二月騒動)はまさに日蓮の予言した内憂外患があたる格好となり、日蓮は文永11年(1274)に許されて鎌倉へ戻り、内管領平頼綱と会見するも、やはり日蓮の主張は受け入れられなかった。日蓮はやがて鎌倉を去り、身延山で晩年を迎えた。
 なお、別の史料では日蓮が「立正安国論」を起草したのは駿河国の岩本実相寺(現静岡県富士市岩本)であるとするものもあるが、日蓮宗にとってみれば宗祖の重要な霊跡ということもあってか、江戸時代には近隣の妙法寺・長勝寺が日蓮の小庵の位置をめぐって争い、幕府の裁定を仰ぐという事件もあった。

撮影日:2011年1月26日
鎌倉市大町4丁目
(鎌倉郡大町村)


位置

参考文献

稲葉一彦『「鎌倉の碑」めぐり』(表現社、1982年)
奥富敬之『鎌倉史跡事典(コンパクト版)』(新人物往来社、1999年)
(ジャパンナレッジ版)『日本歴史地名大系』、平凡社
(ジャパンナレッジ版)『国史大辞典』、吉川弘文館

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