鎌倉宮から瑞泉寺へ向かって歩いていく途中にテニスコートの脇に永福寺の旧蹟碑がたっている。碑には「永福寺は一般に二階堂と呼ばれ、今の二階堂という地名があるのは、この寺に由来している。文治5年(1189)に頼朝が奥州藤原氏を討って鎌倉に凱旋すると、この地に平泉・中尊寺の大長寿院の二階堂をまねて永福寺を建立した。この寺の建物はとても大きく立派で、荘厳であり、またとないような大建造であったという。享徳年間に関東管領が没落した頃より後はまったく廃れてしまった」といった意味の言葉が刻まれている。この碑の背後の空き地がその永福寺跡といわれている。



永福寺旧蹟の碑

 源平合戦以来を終えた後、頼朝は奥州藤原氏を討ち、その際に見た平泉の毛越寺、中尊寺を見て、それを模した寺院の建立を企図した、碑文にある二階堂とは、二階建ての大堂という意味で、平泉の中尊寺の大長寿院(二階大堂)を模したものであった。永福寺建立の目的は、弟の源義経、藤原泰衡をはじめとする、奥州での合戦での戦没者を弔う目的があった。ただ、奥州での残党の蜂起(大河兼任の乱)が建久元年(1190)に起きたこともあり、延期が重なり、建久2年(1191)にようやく始まった。この工事には多くの御家人たちも進んで参加した。建久3年(1192)11月に二階大堂の工事が竣工した。その後も堂宇の建設が続けられ、最終的には中央に二階大堂、両脇に阿弥陀堂、薬師堂、そして前には池が持つ伽藍が完成した。これらのすべての完成まで5年の歳月がかかったものの、その華麗さを吾妻鏡は「雲軒月殿絶妙比類無し」と記している。



永福寺の跡

 しかし、鎌倉期にはたびたびの火災の遭い、そのたびに再建・修理が行われたが、弘安3年(1280)と延慶3年(1310)の火災は二階堂が焼失、室町期にも火災で堂宇を失い、関東管領の勢力がさびれてゆくとともに荒廃し、再建されなくなったものと考えられる。
 これまでの発掘調査で、参道跡の遺構や「かわらけ」などが出土している。また、鎌倉市内の複数の場所(扇ガ谷、大慈寺跡)から永福寺の印を押した瓦が出土しているほか、扇ガ谷の浄光明寺阿弥陀堂の内陣柱が永福寺の古材であるという伝承がある。


おことわり:永福寺の旧跡は平成19年(2007)より鎌倉市によって、国および神奈川県の補助を受け、段階的に史跡公園としての復元工事が進められ、平成29年(2017)に3堂の基壇および池の復元が行われました(同年6月に全面公開開始)。よって、このページに掲載されている写真と現在は景観状況が異なります。
撮影日:2011年6月4日
鎌倉市二階堂


位置

参考文献

稲葉一彦『「鎌倉の碑」めぐり』、表現社、1982年
『かまくら子ども風土記(中)(改訂十版)』(鎌倉市教育委員会、1991年)
白井永二『鎌倉辞典』(東京堂出版、1992年)
奥富敬之『鎌倉史跡事典コンパクト版』、新人物往来社、1999年

2017/08/07 UP
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