京浜急行の金沢文庫駅を降りて、東へ住宅地を進むと称名寺がある。真言律宗の別格本山で山号は金沢山。本尊は弥勒菩薩。もと奈良西大寺の末寺。開山は審海。開基は北条氏の一門で金沢流の祖、北条実時(金沢実時、かねさわさねとき)。この地は実時ら金沢流の別邸があった地で、この地にあった実時の持仏堂が称名寺の前身と考えられている。称名寺の当初の本尊は阿弥陀三尊であったが、実時に招かれて鎌倉に下向した奈良西大寺の叡尊(えいそん)に実時が深く帰依したことから、文永4年(1267)に真言律宗に改められた。
称名寺の庭園
金沢北条氏の菩提寺として寺勢を拡大し、その領地は各国に及んだ。鎌倉幕府と金沢北条氏が滅んだ後も後醍醐天皇の勅願寺となり、足利直義による荘園の寄進をうけるなどしたが、江戸前期頃には衰えていたようである。この後、文政元年(1818)には仁王門や池の一部が復興され、大正11年(1922)に境内は国の史跡となった。昭和五十四年(1979)から鎌倉時代の『称名寺結界図』をもとに庭園の復元工事が行われ、昭和六十二年(1987)に完成した。境内には赤門、仁王門、本堂、釈迦堂などの他、実時、顕時、貞顕の金沢北条氏三代の墓がある。
なお、金沢北条氏は北条氏の一門のなかでも特に文筆の家として知られ、実時が当地に建てた文庫を金沢文庫(かねさわぶんこ)と言う。文庫には実時が収集した和漢の書物が収められていた。文庫の運営は子の顕時や孫の貞顕らにも受け継がれ、特に貞顕は六波羅探題として京都に在任中に、多くの書物を譲り受けたり、書き写したりして、文庫の発展に尽くした。現在、私たちの知る有名な歴史書や古典文学作品などは金沢文庫所蔵、あるいは金沢文庫の旧蔵本が多い。また、金沢文庫が所蔵する「金沢文庫古文書」は金沢北条氏や称名寺の僧たちが書いた書状が約四千通納められており、史料の少ない鎌倉時代後期を知るための重要史料である。
仁王門と本堂
現在の金沢文庫は明治30年(1897)に伊藤博文が称名寺の塔頭大宝院跡に倉庫と書見所を作り復興したものを前身とする。この文庫は大正12年(1923)の関東大震災で大破してしまったが、昭和5年(1930)に神奈川県立金沢文庫として現在地に再建された。平成2年(1990)には中世の歴史博物館として再整備され、現在に至る。
金沢という地名は古くは「かねさわ」と読まれ、中世歴史学の立場からは現在でも「かねさわ」と読むのが慣例となっている。文庫の名称もこれに従えば「かねさわぶんこ」である。しかし、現在の地名は「かなざわ」と濁るようになっており、区名や駅名はこれに基づいている。ここ金沢の地は東京湾に面する良港で中世期には鎌倉の外港として発展した。ここから西へ朝比奈峠を越えると鎌倉である。
江戸時代には景勝地として栄え、特に優れた八つの風景は「金沢八景」として知られた。浮世絵の大家歌川広重によって描かれた「金沢八景」の錦絵が有名であるが、江戸後期以来の干拓と埋立により、現在は京浜急行の駅名にその名を残すのみとなっている。