鎌倉駅より鎌倉宮行きのバスに乗り、終点で降りるとあるのが鎌倉宮である。祭神が大塔宮(おおとうのみや、だいとうのみや)護良親王(もりながしんのう、もりよししんのう)であることから、大塔宮とも呼ばれる。護良親王は、後醍醐天皇の長子で、嘉暦元年(1326)に出家し僧籍に入るものの、後醍醐天皇の討幕運動である元弘の乱(1331〜1333年)には兵を率いて活躍。建武の新政の頃には征夷大将軍になった。しかしのちに足利尊氏と対立、建武元年(1334)に陰謀を企んだとして捕らえられ、鎌倉に送られた。親王はそのまま尊氏の弟、直義の監視下もとで二階堂にあったとされる東光寺に幽閉された。東光寺は、永福寺のそばにあった薬師堂が前身と考えられている禅宗の寺であったとされるが、その詳細は一切わかっていない。


鎌倉宮

 太平記に伝える護良親王は、この東光寺の土籠(つちろう)に閉じ込められたとされている。この土籠(つちろう)とは、三方を土で塗った牢舎(普通の屋敷の牢屋)であったとされているが、後世には土籠(つちろう)を土牢(つちろう)と誤読したため、親王が穴蔵のような洞窟の牢屋にいれられたとした説が広がってしまった。翌年の建武二年(1335)には、北条高時の子で信濃に逃れ、隠れていた時行が挙兵し、鎌倉に攻め込むという事件(中先代の乱)が起こると、鎌倉を防衛していた直義は時行の軍勢に敗れ、鎌倉の脱出を余儀なくされた。その時、時行の勢力と親王が結びつき、再び親王が挙兵するのを恐れたのか、直義は部下の淵辺義博(ふちのべよしひろ)に親王を殺害した。現在、理智光寺の近くの山に親王の首塚と伝える御陵が存在する。鎌倉宮はこの護良親王が殺害された地に、明治天皇の意志で明治二年(1869)に創建された。鎌倉宮の名も天皇が自ら決めたという。境内には、境内社として、護良親王の身代わりとして自害した村上義光(むらかみよしてる)を祀る村上社、幽閉された親王の身の回りの世話をし、親王殺害時には親王の子を身ごもっていた南の方を祀る南方社がある。なお、この南の方の子は、後に出家して妙法寺(大町)を中興した日叡である。

撮影日:2011年2月10日
鎌倉市二階堂
(鎌倉郡二階堂村)

境内 境内 拝殿 村上社 拝殿
境内 鳥居

位置

参考文献

『かまくら子ども風土記(改訂十版)』、鎌倉市教育委員会、1991年
白井永二『鎌倉辞典』、東京堂出版、1992年
奥富敬之『鎌倉史跡事典コンパクト版』、新人物往来社、1999年
吉田茂穂『鎌倉の神社』、かまくら春秋社、2002年

2011/02/27 UP
2015/01/14 CSS改修