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中世 鎌倉時代 頼朝挙兵と鎌倉入部


 ◆頼朝の伊豆時代

願成就院の山門(静岡県伊豆の国市)

伊豆の韮山付近は頼朝を預かった北条氏の根本所領であり、現在も伊豆には北条氏が関係する寺院や史跡が多い。

 鎌倉幕府の創設者となる源頼朝(1147〜1199)は、源義朝の三男で母は熱田大宮司藤原範季の娘であった。13歳の時、父の義朝が平治の乱に破れ、父子はともども東国へ落ち延びることとなった。しかし、関ヶ原のあたりではぐれたところを頼朝は平家方に捕らえられてしまった。京都へ護送された頼朝は当然なら死刑となるところを平清盛の継母池禅尼(いけのぜんに)の嘆願で助命された。頼朝はこうして伊豆国(いずのくに)に配流の身となったのである。
 父や兄たちを失い、すでに政治的な生命は終わったかに見えた頼朝の伊豆時代は、読経三昧の日々であった。頼朝自身はこの時は再起を図ろうとなど考えていなかったのかもしれない。ところが頼朝が伊豆に来たということは、一方で関東のその後の歴史に大きく作用した。頼朝は流人とは言え、源氏の嫡流であり東国武士たちにとっては貴種であることに変わりなかった。頼朝の周辺には近在の伊豆・箱根の僧侶たちの他、相模や伊豆、駿河の武士たちが出入りしていた。主な人々に佐々木秀義三善康信(みよしやすのぶ)安達盛長といった人々がいる。いずれも頼朝の挙兵、そして幕府の創設に尽力した武士たちである。さらにこの頼朝の生活は比企尼(ひきのあま)という人物の支援を受けていた。比企尼はもともと頼朝の乳母であり、頼朝の伊豆配流後は夫とともに本領の比企郡に下り、頼朝の伊豆生活を援助していたのである。

蛭が子島(静岡県伊豆の国市)

頼朝が流されたとされる蛭が子島は、いま史跡公園となっており、頼朝と政子の像がある。

   この比企尼という人物とその娘たちもこの後の幕府政治に重要な人物である。頼朝の流人生活というものは、このような人々と宗教に支えられ、決して不自由なものではなかったと思われる。『源平盛衰記』(げんぺいせいすいき)という軍記物語に次のような話がある。頼朝は地元の伊東祐親(いとうすけちか)という武士の監視下にあった。頼朝は祐親の娘に恋をした。そして、とうとうこの娘との間に千鶴という男の子までもうけてしまったのである。娘の父親の祐親は、その時は京都大番のため京都に上っていてそのことを知らなかったのだが、やがて伊豆に帰ってそのことを知り、平家のきこえをおそれ、千鶴を殺してしまい、さらに頼朝をも殺そうとした。頼朝は伊豆山に逃れて、なんとかその難を凌いだ。この話が真実であるかどうかはわからない。しかしながら、頼朝は31歳の時、祐親と同じ頼朝の監視役の任にあった北条時政の娘で当時21歳の政子と恋仲になり、伊豆時代すでに大姫という娘をもうけていた。時政の方は頼朝の義父となったことをどう思ったのであろうか。そのことはわからないが、この婚姻は伊豆の小さな小さな武士であった北条氏の運命を変える出来事であった。そうしたことはこの時点では当の頼朝も政子も時政も誰も予想などできなかったであろう。頼朝がこの後、平家に対して挙兵しなければならなかった理由は、京都情勢の急変にあったのだから。もしかしたら頼朝自身はこのまま何も起こらず、ただ政子や関東の武士たちとともに平穏で無事な一生を終えたいと願っていたかもしれない。

◆以仁王の乱
 頼朝が伊豆に流されたのは平治の乱の翌年、永暦元年(1160)のことであった。それから頼朝が挙兵に至る治承四年(1180)までの20年の歳月は京都では平家が政治的な影響力を強めていた。平治の乱以降、京都の政界は後白河上皇と平清盛の平家一門が両者微妙なバランスで権力を維持していた。平治の乱後、政治的な発言力を急速に増し、一族もろとも高位高官に就いて婚姻によって貴族社会に迎えられた平家一門と治天の君(ちてんのきみ)として君臨する後白河上皇との唯一の結節点となったのは高倉天皇であった。仁安2年(1167)に即位した高倉天皇は後白河上皇の第七皇子で、母は平清盛の妻時子の異母妹。なおかつ中宮は清盛の娘徳子(建礼門院)。両者それぞれに血縁関係がある高倉天皇の即位は清盛と後白河上皇の最後の協調事業であった。この後、清盛・平家と後白河上皇は対立を重ねることとなる。ともかくも同年には清盛は太政大臣になるなど権勢を増すこととなる。平家が政権を掌握したこの時期は六波羅政権(時代)と呼ばれる。六波羅というのは平家が本拠地を置いた京都六波羅の地のことである。
 ところがこういった平家政権は決して盤石なものではなかった。平家には3つの抵抗勢力が存在していた。
 まず1つは地方の武士たちであった。これは平家が在地つまり地方の武士たちを掌握しきれなかったことにある。平家のやり方というのは荘園の集積で巨大な家領を築くことであった。このやり方というのはそもそも藤原摂関家をはじめ従来の京都貴族たちとあまり代わりがない。つまり平家は貴族化しているのである。こうなればすでに平家に武士の利害代表者としての棟梁の姿はなかった。武士たちは今は表面上こそは平家に従属していながらも、その実態は機会さえあれば事態を打開するために独自の行動をとれるようになっていた。この結果、個別には在地武士たちの年貢未納や押領、反抗が起き始めるようになる。
 2つ目は後白河上皇とそのとりまきの貴族たちである。このことが露呈したのが治承元年(1177)の鹿ヶ谷事件(ししがたにじけん) である。この事件は藤原成親、西光、俊寛ら院の近臣たちが鹿ヶ谷の俊寛の別荘で平家討伐の謀議をしていたことが露見したものである。事態を知った平家はすぐに関係者を捕らえ、藤原成親、西光は処刑、俊寛は流罪となった。清盛にとってみれば、この事件の黒幕が後白河法皇であったことは容易に推測できたであろう。だが清盛は後白河には特に処罰を与えなかった。
 3つ目は宗教勢力である。特に比叡山がそれにあたる。中世の京都において比叡山や南都(奈良)の仏教勢力は大きく政治に影響を与える強敵であった。彼らは宗教と武力の両面から自身の要求を押し通そうとする強訴という手段でたびたび京都を騒がせた。もともとこういった勢力との対立は後白河院政権の中でも起きていたことだが、治承四年(1180)の高倉上皇の厳島社参でより深刻なものとなってしまう。
 こうした中で反平家への機運を察知した清盛は、政治権力の維持にはさらなる正当性の必要を感じた。これをつなぎとめる存在として翌年、清盛は待望の孫、つまり高倉天皇と自身の娘徳子との間にできた男の子(言仁親王(ときひとしんのう))の誕生を迎えた。この男の子を即位させれば、清盛はいよいよ天皇の外祖父の地位を得るのであった。だが、容易ならぬ難敵後白河との対立のなかでついに平家はクーデターの実行を決意する。治承3年(1179)11月4日、清盛は数千騎を率いて別邸のある福原から上京すると関白松殿基房(まつどのもとふさ) を解任、さらにそのほかの反平家公卿たちを解任し、後任には平家方の公卿たちをつけた。20日には後白河を鳥羽殿に幽閉する。この事件を治承3年の政変という。
 翌治承四年(1180)二月には、高倉天皇は譲位し、二歳の言仁親王(安徳天皇 )が即位した。高倉上皇自身も擁立された天皇であったから、政権はほぼ清盛の掌握するところとなった。だが、このクーデターと安徳の即位で確実に皇位の望みを失った人物がいた。後白河の第三皇子で二十九歳の以仁王(もちひとおう) である。
 以仁王は京都における源氏の長老源頼政(みなもとのよりまさ)と結び平家打倒のはかりごとを進める。この過程で諸国の源氏らに平家追討を命じる令旨、いわゆる「以仁王の令旨」が出された。「以仁王の令旨」(もちひとおうのりょうじ)は密使によって各地の源氏に届けられ、当然伊豆の頼朝のもとにも4月27日に伝わった。以仁王のこの計画は5月頃には漏れてしまう。しかし清盛は、かつて平治の乱で源義朝を裏切って自分についた源頼政を信頼していたらしく、以仁王を彼の三条高倉の邸宅へ逮捕しにいく軍勢に頼政の子、兼綱を加えていた。兼綱から計画が漏れたことを聞かされた頼政はやむなく挙兵することとなる。この事件を以仁王の乱 という。
 以仁王と頼政は合流したが、何しろ準備不足であったのですぐに南都の寺社勢力を頼って奈良へ向かう最中、頼政と以仁王はそれぞれ戦死してしまった。乱はこうして鎮められたが、清盛はいっそう反平家勢力を警戒した。特に以仁王が頼みにした寺社勢力を危険視した清盛は守りにくい京都を捨て、福原への遷都をすることとなる。6月2日、平家は貴族たちの反対を押し切って福原遷都を強行した。そうする一方で以仁王が平家討伐を命じた諸国の源氏一門への対処にも迫られることとなる。清盛はこうして諸国の源氏一門の討伐へ乗り出すこととなる。

◆頼朝の挙兵と鎌倉入部

石橋山古戦場(神奈川県小田原市)

海を望むこの高台に石碑が建てられている。近くには佐奈田霊社などがある。
 本来は読経三昧であった伊豆の頼朝はこうして急遽自らの身を守るために平家に立ち向かうことを余儀なくされたのである。しかし、頼朝としてみれば、確かに京都情勢の変化によって余儀なくされた挙兵ではあるが、勝算がまったくなかったわけではなかった。なによりも自身は伊豆におり、すぐに平家本体の手が伸びてくるわけではない。頼朝のさしあたりの敵は平家の家人たちであるが、それに立ち向かうだけの味方はいた。それが伊豆の頼朝に出入りしていた武士たちであったことは言うまでもない。そして、さらに言えば在地の武士たち、特に東国のそれが平家に反発するが故にその核さえあればいつでも独自行動をする下地があったことは先に触れた。
 頼朝はことを実行した。治承4年8月17日の夜のことであった。三島神社の例祭の日を狙って、平家方の伊豆の目代山木兼隆を夜討ちしたのである。この山木討ちは成功したが、頼朝はすぐに次なる行動に移らなければならなかった。妻の政子を伊豆山に預けると、自身は相模国土肥郷に赴いた。平家も頼朝の挙兵を知ると、続々と平家方の家人を派遣した。そうしてこの地で行われた戦闘を石橋山の戦いという。頼朝らの軍勢は北条時政や土肥実平佐奈田与一義忠など僅かであったので、平家方の伊東祐親大庭景親渋谷重国らの大軍にあっさりと負けてしまった。これは本来頼朝の援軍に来るはずだった相模の三浦一族が途中、酒匂川の増水によって到着が遅れてしまったことが原因であった。その三浦一族はとうとう頼朝らと合流できず、むなしく本拠地三浦半島の衣笠城へと引き返していった。その帰途、鎌倉の由比ヶ浜付近で平家方の畠山重忠の軍勢と遭遇し、合戦となった(小坪合戦)。この合戦は両者とも相当の被害を出し、痛み分けとなった。

しとどの窟(いわや)(神奈川県湯河原町)

戦いに敗れた頼朝らが隠れたという伝承を持つ。
 しかし、重忠はその後、由比ヶ浜での会稽(かいけい)を雪(すす)ぐため、同族の河越氏や江戸氏に加勢を頼み、三浦氏の本拠地、衣笠城(横須賀市)を攻めた。勇猛な三浦一族もさすがに武蔵勢の攻撃に耐えかね、衣笠城は落城ということとなった。もはや三浦一族は最期かと思われたこの時、一族の長老にして惣領の三浦義明は、一族を前にこう言った。
「吾源家累代の家人として、幸いにその貴種再興の秋(とき)に逢うなり。盍ぞこれを喜ばざらんや。保つ所すでに八旬有余なり。余算を計るに幾ばくならず。今老命を武衛に投げ、子孫の勲功に募らんと欲す。汝等急ぎ退去して、彼の存亡を尋ね奉るべし。吾独り城郭に残留し、多軍の勢を模し、重頼に見せしめん」(我は源氏の累代の家人として、幸いにも今、貴種(頼朝)再興の時に出会うこととなった。どうしてこれを喜ばないでいられようか。(我は)すでに80歳を過ぎた。残る命は幾ばくもない。今、その老命を武衛(頼朝)のために投げ、子孫の勲功としたい。お前らは速やかに城を退去して、彼(頼朝)の消息を尋ねなさい。我は一人城に残って、大勢残っているように見せかけて、(河越)重頼に見せつけるから)(『吾妻鏡』治承4年8月26日条)

 
来迎寺(鎌倉市材木座)
材木座の来迎寺には、義明とその主従のものと伝えられる墓がある。
 こうして一族は義明を残して、子息の義澄らは泣く泣く城を脱出し、頼朝の後を追って房総へと脱出した。翌日、義明は河越重頼らに討ち取られた。後年、この話を聞いた頼朝は涙して、ただ義明に感謝するのだった。そして義明の17回忌(建久8年、1197)には多大な供養料を贈ると、「今日まで義明は生きていたものとする」として、89歳で戦死した義明に17年を足して、義明は106歳で死んだものとしたと言われている(50 来迎寺(材木座))。「鶴は千年、亀は万年、三浦大介(みうらのおおすけ)百六つ」という囃し歌の所以である。
 一方の頼朝は石橋山での壊滅的な敗戦から一転、房総半島へ渡ってから、その勢力を拡大していくことになる。三浦一族との合流も成功、安房ではかつて見知ったる安西景益が出迎えた。大豪族である下総の千葉常胤、上総の上総介(かずさのすけ)広常も頼朝の傘下に入った。彼らが頼朝側についたことは非常に大きかった。安房、上総、下総の3国をその傘下におさめると頼朝は武蔵へ向かった。かつて小坪や衣笠城で三浦氏と戦った畠山重忠やその同族の江戸重長、河越重頼らも、この時には頼朝側につき、頼朝は下野の小山氏下河辺氏(しもこうべ)らにも使者を使わしている。
 
頼朝が上陸したとされる猟島(千葉県安房郡鋸南町)
今は写真のような碑が建っている。富津や鋸南のあたりは、東京湾の中でも特に狭く、ここからも対岸の三浦半島が見える。
 石橋山での敗戦から2ヶ月あまりで頼朝は勢力を急拡大させ、10月6日には相模に帰ってきた。頼朝はこうして鎌倉に入るのである。頼朝にとって鎌倉は父義朝ゆかりの地であり、ここには先祖以来の由比若宮(ゆいのわかみや)があった。そうしてまたここ鎌倉は三方を山に囲まれ、万が一の脱出路としての海を前方に控えた要害の地でもあった。鎌倉に入るとまもなく妻の政子もやってきて、頼朝は大蔵に自身の邸宅を建てることにした。10月から大庭景義を奉行に、この邸宅の建設工事は始められた。やがてそれが完成すると、12月12日、頼朝は仮住まいとしていた上総介広常の邸宅を出て、新造の邸宅に移った。この移徙(いし)には、和田義盛を筆頭に多く武士たちが付き従った。やがて彼らは侍所に出仕した。その数、211人。『吾妻鏡』はこの時、「以後、東国の人びとは、頼朝の考えや行動が理に適っているので『鎌倉の主』として推戴した」と記している。「鎌倉の主」すなわち「鎌倉殿」が誕生した瞬間であった。こうして頼朝と彼に従がう武士たちが新しい東国を創り上げようとした地、それが大蔵の地であった。一般にこの頼朝の邸宅は、大蔵御所と呼ばれている。だが、頼朝には休んでいる暇などなかった。関東での頼朝追討の任の中核であった伊豆の伊東祐親や相模の大庭景親は、すでに劣勢により逃亡しており、同じく相模の渋谷重国は、頼朝方についた佐々木秀義とその子らを長らく匿っており、平家方としてみればいまいち頼りがない。こうして平家は京都から平家軍の本体を送る必要に迫られた。こうして頼朝にとってみればそれまでは平家の家人たちとの戦いであったのが、今度はとうとう平家本隊を迎えて戦うこととなったのである。

参考文献
・『吾妻鏡』(新訂増補国史大系)(吉川弘文館、1968年)
・大山喬平『鎌倉幕府』(日本の歴史9、小学館、1974年)
・石井進『鎌倉幕府』(石井進の世界1、山川出版社、2005年)

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