◆富士川の戦い
関東に起こったこの頼朝たちの反乱の討伐にやってきたのは平維盛(たいらのこれもり)であった。維盛は死んだ重盛の子で、清盛の孫にあたる。9月末に京都を出発した維盛率いる平家軍は10月18日に駿河国(するがのくに)富士川の西岸に陣を構えた。頼朝もこれに対応して兵を駿河に進め、二十日には黄瀬川(きせがわ)に着陣し、両者は対峙する。ところがこの戦いはあっけなく頼朝方の勝利に終わる。「岸にいた水鳥の羽音に驚いた平家軍が逃げてしまった」という話が一般にはよく知られているが、すでにこの時、同じく以仁王の令旨を受けていた甲斐源氏の動きなどもあり、現地の状況は平家軍には不利だったのである。頼朝はこの戦いを持ってようやくひと段落つく。『吾妻鏡』の語るところによれば、この時、頼朝は逃げる平家軍を追って西上しようとしたが、千葉常胤、上総広常、三浦義澄らが諌めて関東経営の専念に方針転換することになったという。この話の真偽はわからないが、ともかくも頼朝はこの時、以降奥州合戦まで自ら関東を動くことはなかった。合戦後、石橋山で頼朝を苦しめた大庭景親が捕えられ、斬られた。景親には早くから頼朝方についていた兄景義がいた。頼朝から弟の処遇を任せられた景義は、その処遇をすべて頼朝に委ね、助命嘆願することがなかった。このような合戦が起きた際、親子兄弟分かれて戦い、どちらかが生き残るのが当時の武士の生き方であった。12月には最初に頼朝を預かっていた伊東祐親も捕えられ、自害した。反対に渋谷重国は、匿っていた佐々木秀義の縁で頼朝に許され、御家人に列している。また、大庭景親に従い、石橋山で頼朝を追い詰めた梶原景時も12月には降伏し、頼朝のもとに参じた。景時は文武に優れた有能な武士であったと見え、その後は頼朝の側近として重要な位置に上りつめる。こうして頼朝の軍勢は富士川の戦いを境に、着実に南関東での基盤を固めた。
さて、勝利の余韻に浸る頼朝の陣営。この場に頼朝のもとに一人の若者が訪れる。彼は奥州平泉に潜伏していた弟、義経であった。有名な黄瀬川での対面である。彼もまたこの後、平家との戦いや鎌倉幕府の創設に様々な意味で重要な役割を果たすこととなる。
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◆東国政権の基盤
頼朝にとっても、中世社会全体にとっても激動だった治承四年(1180)という年は、都では平重衡の南都焼き討ちという衝撃的な事件をもって終わる。明けて養和元年(1181、ちなみに頼朝らはこの改元に従わなかった。)の閏二月四日には平清盛が死去する。跡を継いだのは子の宗盛であったが、彼は若くして関東の動乱の上に父清盛の死によって都で後白河法皇との関係の上で難しい政局を強いられた。ただ、この年は養和の飢饉に代表される天候不順の年であり、この期間は源平ともに動きは少なかった。木曽義仲の動きも合わせて両者が本格的に激突するのは翌年の元暦元年(1182)からである。
その前に富士川の戦いの後、関東に留まった頼朝の関東経営について見ておきたい。思えば頼朝は治承四年の夏に挙兵し、秋には鎌倉に入り、すぐに富士川で平家軍を打ち破った。鎌倉に入った頃には、幕府の原型なるものがすでにできつつあったわけであるが、あまりにも短期間のうちに頼朝がことを成し遂げた要因とは何であったのだろうか。鎌倉幕府成立史を考えるうえで、そこは根本かつ一番興味深いことである。もちろん伊豆の流人の頼朝は挙兵当時は、義父の北条時政率いる北条氏と少数の伊豆・相模の武士たちくらいしか頼るアテはなかった。ところが先の章で述べた通り、挙兵当時の頼朝がまったく孤立無援であったわけではない。関東には大庭景親や伊東祐親のような忠実な平家の家人たちもいた一方で、核さえあればいつでも独自行動をする武士たちが多くいたのである。彼らがまさに頼朝軍の主体となっていくのである。頼朝挙兵に駆けつけようとした相模の三浦氏や、安房の安西氏、下総の千葉氏、上総の上総氏がその代表である。さらに一時は平家方として戦った畠山氏を中心とする武蔵の武士団たちもやがて頼朝のもとに参陣している。彼らはなぜ頼朝に味方したのであろうか。彼らのその行動は当然、彼らにとってそれがメリットのあることであるから、そうするのであろう。
端的に言えばそれは本領安堵と新恩給与である。武士たちにとっては所領こそが武士であることの根本である。だから何らかの権威にその所領が自分のものであることを認めてもらう必要がある。これを本領安堵と言う。さらに新しい所領を獲得する(新恩給与)もまた大事である。
武士たちは当時は知行国主の目代のもと、不安定な立場にあった。この不安定な立場を解消する東国の新しい主人こそが頼朝であったのである。武士たちが頼朝に付き従った理由は、ここにある。頼朝の行動は何でも許される内乱期においてしかできないことであった。だからこれは頼朝とそれに従った武士たちが実力で奪い取ったものなのである。この時、頼朝に従った武士たちはやがて幕府の御家人となる。御家人という言葉は「頼朝の家人(けにん)」という意味からきている。家人に敬称の「御」をつけて「御家人」である。御家人の子孫たちが、御家人の立場を継承する。次第に幕府が全国にその影響力を拡大させるに至り、西国の武士たちも御家人になっていくが、原則はそのような仕組みであった。鎌倉幕府の御家人制は頼朝の家人となった武士たちが結集して始まったのである。
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◆十月宣旨
南関東を頼朝が制圧した頃、都でもまた大きな動きがでていた。一つは木曽義仲の動きである。頼朝と同じように以仁王の令旨を受けて放棄した信濃の義仲は、養和元年(1181)六月に越後に進み、以仁王の遺子、北陸宮を奉り、北陸を制圧していた。この義仲は翌寿永二年(1183)七月には京都を伺う位置まで進出した。後の世に戦国大名たちが天下取りで上洛を目指したように、義仲も京都を目指した。平家はすでにこの時、倶利伽羅峠で義仲の軍に敗れていた。にも関わらず、平家には義仲だけを相手にできない困難な状況が存在していた。それがもう一つの大きな動きであるが、これは寺社勢力の動きである。この当時の平家に対抗するもう一つの大きな勢力として京都を取り囲む寺社勢力があった。これはたとえば以仁王が園城寺や南都の衆徒を頼ったように寺社勢力は常に平家の強大な対抗勢力として存在していた。義仲の接近に加え、このような不利な状況を悟った平氏は七月に安徳天皇を奉じて九州へ落ち延びる。いわゆる平家の都落ちである。都を脱出した平家に代わって義仲軍が一番乗りで上洛を果たす。
このように内乱は関東だけではなく、この時期は同時多発的な内乱の渦が日本全国で荒れ狂っていた。その要因となったのは以仁王の令旨であった。挙兵後、すぐに敗死してしまった以仁王であったが、彼の出した令旨は生き続け、全国の源氏の挙兵を促し、このような同時多発的な内乱を引き起こす要因となったのである。平家が天皇を奉じて九州に落ち延びたことにより、関東の頼朝、都の義仲、西国の平家と天下は三分の状況となった。これにもともと独立国家のような状態であった奥州平泉の藤原氏もいれれば四分である。この状態から最も早く脱落してしまったのは義仲であった。義仲は京都に入ったはいいものの、以後は政治的にも軍事的にも失敗の連続であった。彼の失敗の原因は主に朝廷との関係であった。彼には勢いこそはあったものの、老練な後白河法皇と対峙するだけの頭脳はなかった。対する後白河法皇は保元・平治の乱を乗り越え、清盛とも対等にやりあった人物である。木曽の山奥で育った勢いだけの「朝日将軍」には、あまりにも強大過ぎる敵であったのだ。
義仲と違って上洛を急がなかった頼朝は富士川での戦い以降は、鎌倉を動かなかった。しかし、義仲が京都に入った寿永二年という年は頼朝にとっても一つの転換期を迎えた時期であった。治承四年の挙兵以来、頼朝は朝廷に刃向った謀反人という扱いであった。ところが義仲の入京で平家が逃げ出してしまうと状況は一変した。都では平家に連れられて都を離れた安徳天皇に代わって、新たに後鳥羽天皇を立てていた。これにて日本には天皇が二人いる状態となってしまったわけだが、この後鳥羽上皇の践祚によって頼朝は拒み続けていた改元を認め、この年から治承に代わって寿永を使うようになる。頼朝の朝廷に対する接近の姿勢がうかがえるわけだが、後白河法皇の方も頼朝に近づこうとしていた。十月には謀反人として取り上げられていた頼朝の位階が再度与えられ、朝廷は都での横暴が目立つ義仲に代わって頼朝の上洛を望むようになる。しかし、頼朝はとにかく動かなかった。義仲の二の舞を踏むことを恐れたというより、単純にこの時期はいまだ関東平定を成し遂げていない時期にあり、自らが関東を離れれば背後にいる奥州藤原氏や佐竹氏が行動を起こしかねないという理由があった。
そんな頼朝は上洛の代わりに後白河法皇へある提案をする。それはおおまかに見ると次のようなものであった。
・東海道・東山道・北陸道の諸国の荘園や国衙領はもとの領主へ返す。
・このことは頼朝が執り行う。そのため頼朝に東国の行政権を与える。
この時期は全国的な内乱の影響で東国の荘園や国衙領の年貢は荘園領主や知行国主に一切送られていなかった。この年貢を元の通り荘園領主や知行国主に送る代わりに、それを行う担当者として頼朝に東国支配権を朝廷に承認してもらうというのが頼朝の提案であった。
法皇はこの提案を飲んだ。内乱で都には各地の年貢はほとんど運ばれてこなかった。これが東国の分だけでも回復できるのであるから、この提案は朝廷にとって都合の良いものであった。一方で頼朝にとって重要であったのは謀反人からの脱却と自らの東国支配の正当性である。挙兵以来は実力で頼朝は南関東を支配してきたのだが、朝廷からの承認はその支配をさらに確実にする。両者の思惑が合致し、朝廷は寿永二年十月、宣旨によってこれを定めた。もっとも法皇は、身近にいる義仲への配慮も見せ、義仲の本拠地である北陸道は除外した。一般にこれを「寿永二年十月宣旨」あるいは単に「十月宣旨」という。一方、この頃、平家との戦いのため、備中の水島まで出張っていた義仲は、法皇が頼朝に十月宣旨を出したことを知ると、あわてて帰京して法皇に恨み言を述べたが、すでに時遅しであった。こうして平家打倒のために各地で挙兵した源氏のうち、頼朝だけが一段と高い地位にのしあがった。頼朝は矢継ぎ早に義仲を追い詰める。11月、頼朝は十月宣旨の内容を実行する、すなわち滞っていた年貢を進上すると称して、弟の義経と文人官僚の中原親能に兵をつけ、近江まで進出させた。義仲はますますあせった。とうとう義仲は意のままにならない法皇に業を煮やし、11月19日、法皇がいた法住寺殿を襲撃し、院の近臣などを殺害、法皇を捕えた。義仲は征夷大将軍を名乗り、一時的には京都を占拠し、松殿師家を摂政にすえた。義仲は師家の父、基房の娘を妻としていたのである。しかし、義仲のこのクーデターによる独裁体制も長くは続かなかった。この頃、義仲とそれまで行動をともにしてきた畿内の源氏の武士団は彼を見捨てた。長くコンビを組んできた源行家でさえ、彼を見放した。「朝日将軍」の落日はもうすぐそこまで迫っていた。
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◆幕府の創設
さて、この後には頼朝方の軍勢と義仲や平家との本格的な戦乱が開始されるわけであるが、それは次章に回すことにして、その前にこの内乱過程における関東の動きを見ておきたい。このいわゆる源平合戦という内乱(普通、歴史学では治承寿永の内乱という)の結果として鎌倉幕府が成立し、時代は鎌倉時代に進んでいく。かつて学校などでは鎌倉幕府の成立を建久三年(1192)と教えたが、歴史学、とりわけ中世史学の上ではこの説はほとんど採用されていない。というより、この説はすでに1970年代に石井進氏が「とるにたらない」と言っているので、最近というより昔から建久三年説はほとんど重視されていなかった。それでも一般の人たちの鎌倉幕府の成立に対する知識がいつまでも建久三年なのは、「イイクニ作ろう鎌倉幕府」という語呂合わせがあまりにも覚えやすく、インパクトがあったからであろう。
その建久三年説は何が問題かと言うと、建久三年という年は頼朝が征夷大将軍になった年なのである。確かにその後の室町幕府も江戸幕府も頼朝の先例にならって幕府の親玉は将軍になる。
しかし、では頼朝が将軍になるまで幕府がなかったかと言われれば、そうではないはずだ。それは治承四年以降の頼朝の行動を見てきた上では明らかであろう。では、いつ鎌倉幕府は成立したのかと言われれば、はっきりとした答えを歴史学は持っていない。というのも現在の歴史学のなかでも鎌倉幕府がいつ成立したかということは、戦後を通して現在に至るまで議論中であり、結論が出ていないのだ。ただ、頼朝の勢力が単なる武装勢力・反乱勢力が政権となるには、一定の国家機能への関与をしていなければならないという意味で、先に述べた寿永2年の十月宣旨や文治元年(1185)の守護・地頭の設置を画期とする指摘もある。
稚拙ながら私の考えをここには書いてみたい。非常に曖昧ではあるが、私は頼朝が挙兵した治承四年から建久元年(1190)の間に段階的に成立していったとする立場である。なぜ建久元年を終点にしたかというと、この年は頼朝は上洛し、翌年に出された「諸国守護権」の再確認のための交渉をした時期だからである。頼朝の政権は内乱を背景に誕生した。そのため政権の成長には当然、紆余曲折や揺り戻しがあるはずで、着実にステップアップしたわけではないだろう。そのため、政権の確立には内乱の終結や敵対勢力の消滅という条件が重要であろうかと思われる。そのような意味では文治元年に平家が滅亡し、文治5年(1189)に奥州藤原氏が滅亡した。建久元年は頼朝にとって愁いのない状態であり、京都の朝廷との交渉を着実に進めることができる時期であったことは間違いないはずだ。そのため建久元年を終点に考えたのである。しかし、では建久元年に幕府は完成したのかと言われれば苦しい。そこでもしどうしても一地点に絞って幕府の創設の画期を明らかにせよと言われれば、私は建久元年よりも治承四年を重視したい。それは単純に頼朝が南関東の実力支配を開始したこの年がすべての始まりであったからという理由である。そして、その象徴的なのは同年、12月12日、鎌倉の大倉にできた頼朝の新邸ができるわけだが、その移徙(引っ越し)の儀式には和田義盛を筆頭に北条時政や千葉常胤ら211人もの武士らが出仕し、頼朝を「これから後は東国の人びとは、頼朝の考えや行動が理に適っている」ので「鎌倉の主」として推戴するのである。鎌倉幕府という名称は、後世の人びとが頼朝以降の鎌倉の政権に対してつけた名称である。当時の人びとが「守護・地頭ができたので鎌倉幕府が成立しました」とは当然思っていないわけで、そうなると彼らがいつから東国の主は頼朝であると考えたかということを、一つ画期とした方が良いと思うのである。そこで私は幕府創設の大きな画期を治承4年と考えた。それは石橋山の挙兵よりも、この年の末に行われたこの移徙の際の儀式に、より大きな意味があると思うのである。
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■参考文献
・『吾妻鏡』(新訂増補国史大系)(吉川弘文館、1968年)
・大山喬平『鎌倉幕府』(日本の歴史9、小学館、1974年)
・石井進『鎌倉武士の実像−合戦と暮しのおきて−』(平凡社、1987年)
・奥富敬之『鎌倉歴史散歩』(新人物往来社、2001年)
・石井進『鎌倉幕府』(石井進の世界1、山川出版社、2005年)
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2012/12/31 UP
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