どこもく地蔵に夢がない話
2017.9.2
 二階堂の瑞泉寺の境内奥に地蔵堂があり、そこに祀られている地蔵尊には「どこもく地蔵」という通称がある。『新編鎌倉志』(巻四)の「智岸寺谷(ちがんじがやつ)」の項目に、この地蔵の由来が見えている。

「〇智岸寺谷 智岸寺谷は、阿仏卵塔屋敷の西北の谷、英勝寺の境内なり。古へは寺有けれども頽廃せり。近比まで地蔵堂のみ有しが、是も今はなし。地蔵は鶴岡の供僧正覚院にあり。是をどこも地蔵と名く。相伝ふ、初め堂守の僧あり。貧窮にして、 仏餉に供すべき物なき故に、此地を遁れて、佗所に移て居住せんと思定。其夜の夢に、地蔵枕本に現じて、どこもどこもとばかり云て失にけり。彼僧此意を悟て、どこもどこもとは、何くも同じ苦の世界なりと云事なるべしとて、居を不移、一生を終りけると也。」

 すなわち「…智岸寺ヶ谷には、近頃まで地蔵堂のみがあったが、これも今はない。地蔵は鶴岡八幡宮の別当坊である正覚院に祀られている。この地蔵は「どこも地蔵」と名付けられている。伝えられているところによると、昔、(地蔵堂には)堂守の僧がいた。貧しくて、仏様へのお供えもない状況であったので、ここを逃げ出して、別の場所で住もうと思い定めた。その夜の夢に、地蔵が夢枕に現れ、「どこも、どこも」とばかり言って消えてしまった。この僧はこの意味を悟り、「どこも、どこも」とは、どこも同じく苦しい世界であるということだろうと考え、(別に場所に)居所を移すのはやめにして、一生を終えたという。」
 なお、この地蔵は大正期に瑞泉寺に寄進された。よって、現在は瑞泉寺の地蔵堂に安置されているのである。

 困難や苦しいことに直面しても、すぐに逃げ出したりせずに我慢するのだ、ということだ。私も若い頃は、この話を思い出すたびに、「そうだよね。苦労を避けて、逃げ出してばかりじゃいけないよ。どこへ逃げても苦しいのは同じだから、一生懸命頑張らなきゃ!」と思っていた。だけど、そんなのは現実を知らない学生時代の浅はかな妄想に過ぎなかった。そして年を重ねるうちに気づいた。この話はあまりにも夢がない。というか、苦しんでいる人に「どこもおんなじだから、逃げずにそこでがんばれよ」とか言うのは絶対だめだよね。弥勒菩薩の下生まで衆生を救済するため、あえて菩薩のままでい続けていらっしゃる、地蔵菩薩の言うこととはとても思えない。どちらかと言えば、どこぞのブラック企業の経営者が言ってそうなセリフではないか!

「生きてることが辛いなら いっそ小さく死ねばいい。恋人と親は悲しむが三日と経てば元通り」
「気が付きゃみんな年取って 同じとこに行くのだから」

 森山直太朗さんの歌の歌詞の方が、「どこもく地蔵」の教えより、むしろ仏教的である。
 私も毎朝、通勤電車に乗っている時に考えてしまう。「ああ、あと何駅で職場の最寄り駅についてしまう…いやだぁ、仕事したくない。職場行きたくない。早く定年退職したい。それか宝くじ当たりたい。仕事せずに生きていきたい。毎日が日曜日ならいいのに」
そんなことばかり考えている。辛くて辛くて、毎日のように転職は考えるけれども、年齢も年齢だし、気軽に転職できるような状況ではなくなってきている。そもそもコロコロ職を変えることに対しては、こちらとしても世間体というものがある。おまけにインターネットで検索すれば、どの仕事もみんな辛くて日々辞めたいと思っている人ばかり。智岸寺ヶ谷の地蔵菩薩が申すように、現代は本当に「どこも苦」社会だ。この世の中には朝起きたら、「いやぁ、今日も仕事楽しみだなぁ!早く職場に行きたい!」とか思える職業ないのかよ、と思い腹立たしくなる。そんなことを書いている間にも、日曜日は終わっていく。明日も仕事だ。
だが、結句そのような現在の自分の境遇への不満をどこもく地蔵にあてつけていたら、たまたま読んでいた宮本常一氏の『家郷(かきょう)の訓(おしえ)』という本に、氏の父に関するある記述が目に留まった。それは以下のようなものであった。

「父の最も大きな旅行は南洋のフィジーに出稼ぎに行ったことであった。神戸から乗船して行ったのである。フィジーへの移民は父たちの後に一回あった。これも気の毒きわまるものであった。(中略)帰途暴風雨に逢<ママ>って沈没せんばかりの目にあい、多くの患者はこの暴風雨のためにさいなまれて死んだ。晩年に至るまでその悲惨であった様子をよく語ってくれた。(中略)この暴風雨の最中乗っている人たちは一心になって、「どうぞ助けていただきたい。島影を見せて下され。無事に神戸へついたらかならず金毘羅様へ裸足参りをしますから……」と祈った。すると不思議にやや風が凪いで、どこかの島影が見えた。一同は狂喜した。それから天候は回復し、命ある者は再び日本の土を踏み得たのである。しかしながら神戸へかえって金毘羅様へ参ったものは誰もいなかった。父はせめてお礼参りだけはしたいと思って瀕死の重病人でありつつ船で多度津へ渡り、そこから人力車で琴平に行き、あの高い石段の下で下ろしてもらって、這ってのぼってお参りをしたという。何が苦しかったといってもこれほど苦しかったことはなかったそうである。それでも不思議に死ななかった。がこの時以来神様を拝むことを止めた。欲なことは神にたのむまいと思うようになったという。従ってお宮へ参ったというのは死ぬるまで数えるほどしかなかった。しかし、神仏を否定したのではない。鳥居の下を通る時はかならず頭をさげたが、神仏にものを頼まないことにしたのである。(中略)自らの運命は自らで開拓しなければ開拓しようがないと考え、またそのように努めている時こそ神は守ってくれるであろうとて、
心だに誠の道にかないなば祈らずとても神や守らむ
という古歌をひいて、私の神社に参ることを否定はしなかったが、頭をさげる以外のことはさせなかった。」(宮本常一『家郷の訓』、P113〜114)


 絶体絶命のところを金毘羅様に祈ったところ救われたのだから、普通は逆に神仏への畏敬が高まるものだろうと思われた。だが、お礼参りを終えた宮本氏の父は、神仏への頼みごとをするのはやめた、というのがとても印象的である。そして「自らの運命は自らで開拓しなければ開拓しようがない」という結論に行きついたところが、とても私に感銘を与えた。親にせよ、社会にせよ、神仏にせよ、何にせよ、甘やかしが人を一番ダメにする。この甘やかしによる堕落は、人に取り返しのつかない打撃を与える。だから、神仏はそうホイホイと人を救ってはくれない。逆に自らの強い意思で、その困難を打開しようとする者に、自ずから神仏は手を貸す。どこもく地蔵の話は、単なる「ブラック精神」を暗示しているのではなく、むしろ神仏の広大な慈悲を示しているようにもとれる。近世の田舎に伝わる単純な地蔵菩薩霊験譚にも、こんな奥深さがある。私はどこもく地蔵の話をそんな風に思った。

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