大船・常楽寺の裏山には「木曽義高の墓」と伝えられる塚があり、現在、石碑が立っている。碑には「義高は義仲の長子である。義仲がかつて頼朝の恨みを買って兵を出し、もう少しで戦争になるところ、義高が人質として鎌倉に行き、和議が漸くなった。それ以来、(義高は)頼朝の養う所となった。その(頼朝の)娘(の大姫)を得て、妻とした後、義仲が粟津で誅されると、(義高は鎌倉を)逃れて、入間河原まで行ったところで捕えられ、斬られた。塚はこの地の西南約2町(約200メートルほど)のところに「木曽免」という田の間にあったのを延宝年中(1673〜81)にこの地に移したという。朝日将軍(※木曽義仲のこと)が痛烈で豪快な短い生涯の余韻を伝え、数奇の運命に弄ばれた彼の薄明の子の首級はこの地において永遠の眠りについている」といった意味の言葉が刻まれている。

 
石碑と木曽義高の塚

 木曽義高は源義高のことで、源(木曽)義仲の長男である。義仲は頼朝とは従弟の関係にあたり、頼朝と同時期に挙兵した。源頼政の乱で敗死した以仁王の遺児・北陸宮を奉じて信濃で勢力を広げた。その後、義仲は頼朝と対立した源(志田)義広と源(新宮)行家を庇護したことにより、義仲も頼朝と対立することとなった。しかし、寿永2年(1183)3月は義仲が長男の義高を人質として、鎌倉に差し出すことによって和議が成り立ち、義仲は北陸道を京都へ向かって進軍する。同年の5月に越中で行われた倶利伽羅峠の戦いで平氏軍は義仲の軍勢に敗れ、7月に義仲の軍勢は入京した。
 だが義仲の京都支配はうまくいかず、この間に鎌倉の頼朝と京都の後白河法皇の間で交渉が進み、10月には法皇は頼朝に東海道・東山道諸国の支配権を認める宣旨を出す(寿永2年10月宣旨)。これを知った義仲と後白河法皇との対立が続くようになるが、焦った義仲は寿永2年の11月19日、後白河法皇のいた法住寺殿を急襲し、法皇を捕え、幽閉し、院政を停止した。このことから頼朝は範頼・義経の二人の弟を大将とする義仲追討軍を京都に派遣する。翌元暦元年(1184)正月、義仲の軍勢と範頼・義経の軍は、宇治川で激突し、1月6日、義仲は粟津で敗死した。 一方、人質として鎌倉にいた義仲の子、義高は父の敗死によってその立場は脆いものとなった。もともと義高は当時6歳だった頼朝の娘大姫の婿という名目であったが(義高は11歳)、義仲と頼朝が敵対し、鎌倉の軍勢によって義仲が討たれた以上、すでに義高の婿という立場は消滅し、むしろ命の危険が迫っていた。その義高の最後は『吾妻鏡』の4月21日条に詳しく見えている。
 この日、頼朝はすでに義高を討つ意思であることを側近たちに話していた。このことを女房たちが聞いており、密かに大姫に伝えた。義高の命が危ないことを知った大姫は密かにこのことを義高に伝えると、義高は女装し、大姫の女房たちに助けられながら、屋敷を脱出した。馬を隠し置いておき、なおかつ馬の足音が人に聞こえないように蹄を綿で包んでの逃走だった。義高が脱出した後の部屋には義高に付き従って信濃からやってきた海野幸氏(うんのゆきうじ)という、義高と同い年の少年が身代わりに残って、義高がいる振りをしていた。しかし、義孝の脱走は夜にはすべては露見してしまう。頼朝はすぐに義高を討つように家来たちに命じ、御家人の堀親家らが派遣された。義高の脱走が露見したことを聞いた大姫は驚き、慌てたが、義高は武蔵国の入間川(現在の埼玉県)まで逃げたところで堀親家の郎従である藤内光澄に殺害された。このことは秘密にされていたのだが、やがて大姫に漏れ伝わってしまい、大姫は悲嘆に暮れ、水さえ喉を通らなくなるほどなってしまった。母の政子も娘の心中を察し、頼朝を責めた。頼朝は頼朝でそれを義高を討った郎従の責任にしたため、義高を討った藤内光澄はその責任を負わされて打ち首になってしまった。
 以後、大姫は病気がちになり、父の頼朝による後鳥羽天皇への入内構想もうまくいかないまま、建久8年(1197)7月14日に病気によって19歳で死去した。

 江戸時代の『新編鎌倉志』にはすでに「木曽塚」が出ており、もともとは常楽寺西南の田の中にあり、そのあたりは木曽免と呼ばれていたこと、延宝8年(1680)に土地の石井氏が現在地へ移転させ、その時、人骨の入った青磁瓶が見つかったということが記されている。また、常楽寺は義高と大姫の菩提を弔うために建てられたという異説もある(『粟船山常楽寺略記』)。また「木曽塚」の近くには「姫宮塚」なる小さい塚があるが、これは泰時の娘の塚とか、大姫の塚と呼ばれている。

撮影日:2012年2月
鎌倉市大船
(鎌倉郡大船村)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


位置

参考文献

『吾妻鏡』(新訂増補国史大系)(吉川弘文館、1968年)
稲葉一彦『「鎌倉の碑」めぐり』(表現社、1982年)
奥富敬之『鎌倉史跡事典(コンパクト版)』(新人物往来社、1999年)
(ジャパンナレッジ版)『日本歴史地名大系』、平凡社

2012/09/17 UP
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