鎌倉史跡・寺社データベース鎌倉歴史案内>中世・鎌倉時代

目次へ|戻る|次へ

中世 鎌倉時代 平家滅亡と奥州合戦


 ◆群雄割拠
 寿永3年(1184)の正月は、ひっそりと明けた。元日、鶴岡では神楽の儀が行われたが、頼朝は参宮しなかった。理由は前年、上総介広常が頼朝の命で暗殺されたことによるものであった。『吾妻鏡』は「営中穢気の故なり」と記している。上総介広常は、房総平氏系の一族で、上総国を拠点に大きな勢力を持っていた有力武士であった。石橋山で敗れた後の頼朝が、房総で勢力を回復し、武蔵と相模を制圧するのに、彼が果たした役割は大きかった。また、富士川の戦いの後、不穏であった常陸の佐竹氏を追い散らすのにも、広常は活躍した。しかし、その勢力が巨大であるが故に頼朝されるところになったのであろう。『吾妻鏡』には、広常はたびたび頼朝や他の御家人に傲慢、横暴な振る舞いをしたと記されているが、参考程度にみておきたい。また、十月宣旨をもとに、京都との協調を目指す頼朝と、あくまで東国の独立を目指す広常ら有力御家人の意見対立があったとする考えもある。いずれにせよ、頼朝はこの頃から「鎌倉殿」としての責任感あるリーダーシップを発揮していくことになる。一応、『吾妻鏡』には広常が暗殺された後、広常が以前、上総の一の宮に鎧を奉納しており、その中から頼朝の武運長久を祈る願文が見つかり、頼朝は広常の暗殺をひどく後悔したというエピソードが載るが、暗殺した後に、その人物に謀叛が無いことがわかり、後悔するのは鎌倉時代のお決まりのパターンである。
 さて、十月宣旨で頼朝が反乱軍でなくなると、天下の情勢はいよいよ混沌としだした。ここで寿永3年の天下の状況を整理してみよう。まず、都には後白河上皇を中心とした朝廷勢力がある。前年の7月に平家が安徳天皇を連れて九州へ落ち延び、木曽義仲が京都を占領したため、この頃の天皇は幼い後鳥羽天皇であった。後鳥羽は、三種の神器なしで践祚している。公家側の筆頭は摂政の近衛基通であったが、彼はあまり目立った活躍はできず、平家や木曽義仲に翻弄され、後白河の信任により、かろうじてその地位を守っているに過ぎなかった。畿内にはこの他に相変わらず興福寺や延暦寺の寺社勢力が不穏な動きをみせている。
 一方の義仲である。前年、法住寺殿を襲撃したクーデターで、松殿基房とのコンビで一時的に京都政権の実権を握った義仲ではあるが、彼の勢いはすでに凋落していた。寿永3年(1184)1月20日、義経が率いる鎌倉の軍勢は、応援で同じく頼朝の弟の範頼が率いる軍勢とともに、京都に攻め込んできた。この時、義経軍は京都の南方の入り口、宇治川で義経軍と激突した。『平家物語』などで名高い佐々木高綱と梶原景季の「宇治川の先陣争い」が行われた戦いである。ここで義経軍は宇治川の防御を突破し、義仲は敗走する。義仲は法皇を引き連れて落ち延びることを画策するが、法皇は鎌倉側の軍勢が先に確保していた。しかたなく、本拠地、北陸への敗走を画策し、京都の北方、琵琶湖の南岸の瀬田で今井兼平と合流するが、ここでは美濃方面から進軍してきた範頼の軍勢に包囲されてしまう。木曽義仲は、こうして近江粟津にて果てた。

 ◆一の谷と屋島の戦い
 義仲はこうして去った。天下に割拠する勢力の中から、義仲が消え、残る鎌倉の強敵は当面のところ、再び平氏となった。頼朝と義仲という源氏同士が争っている間に、平家は九州で勢力を盛り返し、寿永3年頃には摂津・福原まで勢力を回復していた。九州北部・中国・四国の瀬戸内海一帯は完全に平家が制圧するところとなっていた。相変わらず平家は安徳天皇を擁し、さらには三種の神器まで確保している。すでに平家を都から追い落とした義仲はいない。かわって鎌倉にいる頼朝の代官である義経・範頼らが京都にいるが、彼らはあくまで代官であり頼朝自身は遠く離れた鎌倉にいる。平家は、これから源氏と再び一戦を交え、京都の回復は近いとにらんでいたものであろう。2月6日、平家一門は福原にて亡き清盛をしのぶ法要を開いていた。そこへ法皇からの使者が訪れた。使者は法皇からの書状を手渡した。そこには源平両氏の和平交渉を勧告することが書かれており、交渉中は一切武力行動をしないように、とあった。平家側はこれにすっかり油断していたところ、翌7日、突如として福原を襲撃した。「鵯越えの逆落とし」で有名な一の谷の戦いである。この奇襲作戦は見事に成功し、平家方は平忠度をはじめ多くの武将を失い、また平重衡が生け捕りになるなど大打撃を受け、四国・屋島に退いた。この年の4月には改元があり、年号は元暦となったが、今度は平家がこれに従わなかった。頼朝は平家支配地域になんとかくさびを打とうと、一の谷の後、平家の影響力が強い山陽道や伊勢・伊賀に土肥実平や梶原景時、大内惟義らを派遣するが、その制圧には難航した。特に平家の本拠地ともいえる伊勢・伊賀地域では、7月に三日平氏の乱と呼ばれる大規模な平家残党の反乱が発生し、佐々木秀義が討死した。在地の勢力を中心に、なんとかこの反乱は鎮圧されたものの、8月に頼朝は義経を派遣し、畿内の平定任務にあたらせているが、伊勢・伊賀に潜む平家残党に対する朝廷側の不安は大きいものとなった。
 加えてこの頃、義経と鎌倉にいる頼朝の間に不和が生じはじめ、鎌倉側の軍勢の結束が揺らぎ始めた。特に問題が複雑化したのは、法皇の行動である。法皇は義経の功績に対して左衛門少尉、検非違使の官職を与えた。しかし、鎌倉の頼朝は義経が自分の推挙なしに勝手に任官したことに怒り、平家討伐の指揮官から彼を外した。しかし、9月には頼朝の斡旋で河越重頼の娘を正室に迎えている。彼女は頼朝の恩人、比企尼の娘を母としており、頼朝としては武蔵の有力武士である河越氏を通して義経を何とかコントロールしたかったのであろう。しかし、義経にかわって平家討伐の総指揮官となり、西国へ展開した範頼の軍勢は、思うように西国を制圧できずに、苦戦した。頼朝に泣き言ばかり言っていた範頼ではあったが、それでもなんとか文治元年(1184)の1月には長門国についた。しかし、この時点で範頼の鎌倉軍はバラバラであり、本来武士たちを統率する役割の和田義盛が関東へ帰ることを願い出るような状況であった。事態の打開のためには、再び一の谷のような戦果をあげるしかなかった。頼朝はしかたがなく、再び義経を起用する。義経は、2月17日、摂津の渡部津から出航、暴風雨の中、まず阿波国勝浦に上陸すると、昼夜を問わず讃岐へ進み、19日の早朝、屋島に渡って海側の防御に気を取られていた平家を背後から急襲した。鎌倉では同日、頼朝の父、義朝を弔うための勝長寿院の建設が始まろうとしていた頃であった。義経の軍勢は、こうして勝利をおさめたものの、再び平家一族と安徳天皇、そして三種の神器を取り逃がしてしまった。

 ◆決戦・壇ノ浦

参考文献
・『吾妻鏡』(新訂増補国史大系)(吉川弘文館、1968年)

目次へ|戻る|次へ


2015/01/07 UP

鎌倉史跡・寺社データベース

Copyright (c) 2010-2012 Author All rights reserved.