北鎌倉駅の目の前にあるのは円覚寺である。臨済宗円覚寺派。正式には円覚興聖禅寺。山号は瑞鹿山(ずいろくざん)。本尊は宝冠釈迦(もと本尊は盧遮那仏(るしゃなぶつ)であったという)。開山は無学祖元。開基は北条時宗。鎌倉五山の第二位。
鎌倉街道から円覚寺の参道へ。横須賀線線路が横切る。
創建は弘安五年(1282)で、北条時宗が元寇戦死者の供養のために建てた。北条時宗は執権時頼の子。建長三年(1251)に生まれた。母は北条重時の娘。時頼にはもともと毛利季光の娘を正室としていたが、宝治合戦で季光が三浦方についたため離縁し、翌年鎌倉に下向した連署重時の娘が、時頼の正室となった。時宗は幼少期よりかなりの期待をかけられ、将軍宗尊親王の偏諱(ヘンキ)
をうけ、九歳で小侍所別当に就任している。しかし、父の時頼は康元元年(1256)に出家し、弘長三年(1263)に三十六歳の若さで死去した。この時、時宗は十二歳であったが、時頼から時宗の間を北条長時、政村、金沢実時といった一門や安達泰盛らが補佐したので、時宗は翌年、無事連署に就任した。時宗は文永五年(1268)に執権に就任したが、時宗の執権期はモンゴルの襲来という多難な時期にあった。時宗が率いる鎌倉幕府は文永十一年(1274)の文永の役と弘安四年(1281)の弘安の役の二度にわたる戦いを凌いだものの、モンゴル襲来への警戒による戦時状態は、弘安の役後も引き続き継続し、また二度の戦いに動員された武士たちへの恩賞問題も深刻であった。時宗が父時頼と同様、禅に傾倒したのはこうした多難な幕政運営によるものもあったのだろう。
横須賀線線路を越えて円覚寺の入口と総門(右)
円覚寺の開山として迎えられた無学祖元は、南宋からの渡来僧で、時宗の招きで弘安二年(1279)に来日した。最初は建長寺におり、時宗は通訳をつけて建長寺に参じ、教えを受けていたが、弘安五年に円覚寺の建立で、その開山となった。祖元は二年後には再び建長寺に戻り、弘安九年(1286)に没した。塔所は正続庵。仏光国師の諡号を贈られた。先に来日していた蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)に並び臨済宗の発展に尽くした人物である。なお、祖元に先立ち弘安七年(1284)に時宗が死去しているが、円覚寺の大旦那にあたる時宗・貞時・高時の廟所は円覚寺塔頭の仏日庵である。
建長寺と同じく北条得宗家の庇護を受けた寺院であり、鎌倉時代を通じてかなり発展した。伽藍の整備は時宗の子、貞時にも引き継がれ、尾張・越前・下総・播磨等に多くの荘園を集積していった。元亨三年(1322)の北条貞時十三年忌供養は円覚寺で行われ、建長寺から三八八人、円覚寺はそれに次ぐ三五〇人が参加した。北条得宗家の寺院としての両寺の規模の大きさがわかる。延慶元年(1308)には定額寺となり、寺格も高まっていく。
山門(左)と仏殿
北条氏が滅亡した後、南北朝時代は足利氏らが荘園を寄進し、伽藍も維持されていたようである。また鎌倉公方とのつながりもあった。しかし、室町時代や戦国時代にはたびたび火災に遭っており、その復興は江戸時代まで待たなければならなかった。
境内には総門、山門、仏殿、北条、庫裏、書院、選仏堂(座禅場)、鐘楼などがある。また境内は国の史跡である。
寺号については寺を立てる工事の起工の際に地中から円覚経を納めた石櫃がでてきたためであるという。また、山号は開山の無学祖元が説法をしていると多くの人に混じって白い鹿もその説法を聞きにきたためだという。境内には現在、白鹿洞なるものがある。
方丈前の唐門と白鹿洞
山門の近くの急な石段を登ると大鐘をかける鐘楼がある。洪鐘(おおがね)と呼ばれる。時宗の子、貞時の寄進によって作られた正安三年(1301)の銘があり、関東地方最大のもの。国宝である。その近くにある弁天堂は、この鐘を造るとき、江ノ島弁才天のご利益によって無事にできたことから祀られているという。
国宝の大鐘をかける鐘楼と洪鐘弁財天
開山無学祖元の塔所である正続院には舎利殿がある。大慈寺にあった仏舎利を祀る。国宝。創建は弘安八年(1285)あるいは延慶二年(1309)。建武二年(1335)に開山無学祖元の塔頭となり、正続院が成立した。舎利殿は開山塔の昭堂となった。ところが応安七年(1374)の円覚寺が炎上した際に舎利殿も炎上したらしく、現在の舎利殿は大平寺の仏殿を移築したものである。禅宗様の代表的な建築で、鎌倉では鶴岡の丸山稲荷本殿とならび古い。類似したものとして同じく室町時代の建築である正福寺(東京都東村山市)の地蔵堂が舎利殿に非常によく似て、室町時代初期の禅宗仏殿の典型。もともとは茅葺であったが、昭和四十三年(1968)にこけら葺きに復元された。舎利殿の背後には開山堂、さらに後ろには開山塔(無学祖元の墓塔)が存在する。普段は拝観できない。正月ならびに宝物風入れの時期に公開される。
大正十二年(1923)の関東大震災では寛永二年(1625)に再建された仏殿、方丈、庫裏、書院、総門などほとんどの建物が罹災した。仏殿の再建は昭和三十六年(1961)に始まり、昭和三十九年(1964)に完成した。新しい仏殿はコンクリート造りである。
北鎌倉駅のほど近くにあるが、逆に言えば横須賀線が円覚寺の境内を通過していると言えよう。明治二十二年(1889)に東海道線を大船の停車場から分岐させ、横須賀まで敷いた際、軍事用のため円覚寺の境内を横切るルートがとられたのである。横須賀線北鎌倉駅の開業は昭和二年(1927)である。
◇円覚寺の塔頭
おもに禅寺で僧が死去した後、その墓塔を守るために作られた小さな寺院を塔頭(たっちゅう)という。塔所(たっしょ)とも呼ばれ、塔頭を守る人を塔主(とっす)と言った。塔頭はやがて門弟が相続するようになり、現在は大寺院の中の子院を指す言葉となっている。
鎌倉でもかつては塔頭を有する寺院があったが、本山寺院の衰退により大概が江戸時代末期には廃絶している例が多い。現在はこのような支院を持つ寺院は建長寺・円覚寺と浄土宗の光明寺のみである。
円覚寺の塔頭はかつて四十一あったが、現在は十八である。
雲頂庵、黄梅院、臥龍庵、帰源院、桂昌院、済蔭庵、寿徳庵、昌清院、正続院、正伝院、松嶺院、蔵六庵、続燈庵、伝宗庵、如意庵、白雲庵、仏日庵、富陽庵、龍隠庵
開山無学祖元の塔所は正続院。開基時宗および貞時と高時の廟所は仏日庵。五山文学や庭園芸術で高名な夢窓疎石の塔所は黄梅院。