鶴岡八幡宮の裏から巨福呂坂を北へ向かって山ノ内に進むとやがて建長寺がある。臨済宗で鎌倉五山の第一位。山号は巨福山(こふくざん)。正式には建長興国禅寺という。本尊は地蔵菩薩。開山は蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)、開基は鎌倉幕府の執権北条時頼である。『吾妻鏡』には建長3年(1251)に造営を開始し、同5年(1253)に完成したことが記されている。なお、建長寺のある場所にはもともと心平寺という寺があったといい、寺の建つ前、ここは地獄谷という処刑場だったともいう(『鎌倉志』)。開基の執権時頼は北条泰時の孫で、寛元4年(1246)に急病の兄に代わって急きょ執権職についた。執権就任当時19歳という若年でありながら、着任早々、反得宗家派の前将軍九条頼経や三浦氏といった勢力との対峙を迫られた。しかし、時頼は北条政村、金沢実時ら一門や安達義景といった外戚の補佐と協力をうけて、この困難を打ち破り、前将軍頼経を京都に追放、翌宝治元年(1247)5月には安達氏とともに三浦氏を討伐した(宝治合戦)。同年7月、時頼は京都六波羅探題の大叔父、重時を鎌倉に迎え、彼を連署という補佐役に任じた。経験豊富な一門の長老、重時との二人三脚の政権によって鎌倉は安定し、以後北条氏政権は盤石なものとなった。建長寺の建った建長3〜5年頃は、時頼政権の安定期であったのである。
総門と山門(右)
建長寺の開山蘭渓道隆は、宋の人で嘉禎6年(1213)生まれ。江南各地で禅を学び、寛元4年に博多に来着した。そこから京都の泉涌寺を経て、鎌倉に下った。時頼は道隆を粟船の常楽寺に招き、道隆は宝治2年(1248)に常楽寺に入った。時頼は常楽寺の道隆のもとに通ったが、やがて巨福呂山に堂宇を建て、そこに道隆を招くこととなった。これが建長寺である。建長寺に入った道隆は、約10年あまりにわたって建長寺を禅の道場としての整備し、建長寺は日本最初の禅専門道場となった。正元元年(1259)に、道隆は鎌倉を去って京都の泉涌寺の住持となった。道隆の後継は、道隆らが招いた兀庵普寧(ごったんふねい)である。時頼は普寧のもとにも熱心に通った。時頼はその後の北条得宗家の参禅のはしりとも言えよう。弘長2年(1262)10月16日には普寧のもとでついに悟りを開いたが、翌年36歳の生涯を終えた。普寧も来朝してから6年後の文永2年(1265)には日本を去り、建長寺には再度道隆が入山した。時頼の子、時宗も道隆を深く崇敬し、参禅している。しかし、文永の役の前後は道隆はモンゴルのスパイと疑われてたびたび甲斐や陸奥の松島などに配されるなど激動の生涯を送った。弘安元年(1278)、ついに鎌倉に戻り、建長寺の首座に着任したが、同年66歳の生涯を閉じた。塔所(たっしょ)は西来庵である。建長寺はたびたび罹災している。鎌倉時代に記録にあるものとしては永仁元年(1293)に地震、正和4年(1315)には火災の被害を受けている。しかし、そのたびごとに復興造営のための荘園などが寄進され、伽藍が追加されている。北条氏の庇護のもと、かなりの寺勢と格を有したと言え、延慶元年(1308)には北条氏の斡旋により円覚寺とともに定額寺となっている。定額寺とは官寺に準ずる待遇を受ける寺院であり、この頃には有名無実化しているものの、北条氏の寺院としての建長寺の格の高さをうかがえる。北条貞時十三年忌の供養には建長寺の僧侶388人が参加しているが、これは鎌倉の寺の中では最多の人数であり、規模の大きさを示している。
法堂(はっとう)と仏殿(右)
その建長寺を支えた所領の存在はあまり明らかになっていないが、相模・下総・上野・下野等に所領を持っていたようである。他に建長寺の造営料としては建長寺船(けんちょうじぶね)が有名である。建長寺船は正式には造勝長寿院并建長寺唐船(ぞうしょうちょうじゅいんならびにけんちょうじとうせん)という名で、鎌倉幕府公認の貿易船である。この貿易による収入を建長寺などの造営料とした。鎌倉幕府が滅んだ後の建長寺の姿は詳らかではない。しかし、至徳三年(1386)には足利義満によって五山の第一位となるなど寺勢は維持していたようである。また室町期には五山文学の中心ともなった。応永二十一年(1414)には大火で焼失したようであるが(『鎌倉大日記』)、関東公方足利持氏の協力によって仏殿や山門が再建された。戦国時代から江戸時代初期にかけては荒廃していたようで、建長寺の復興事業が行われたのは江戸幕府の協力があってからであった。
唐門と方丈(右)
現在境内には、外門、総門、山門、仏殿、法堂、唐門、方丈および塔頭十か所がある。仏殿は江戸崇源院霊屋を正保四年(1647)に移築改造したもので、江戸初期の桃山文化の影響を残した建築である。山門は県指定文化財。二階には釈迦如来と十六羅漢の像があるが、山門の痛みがはげしいため、一般には公開されない。この山門については、「狸和尚」の伝説が有る。昔、江戸時代の地震で倒壊した山門を再建しようと万拙和尚という僧が、毎日托鉢へ行く姿をみて、感動したたぬきが、和尚の托鉢姿になりすまして、托鉢にいき、集めた米や金を山門の下に置いていったというものである。(『子ども風土記』)
また、もうひとつ「梶原施餓鬼会(かじわらせがきえ)」の伝説がある。昔、山門下で施餓鬼会をおこなったところ、施餓鬼会の終わりに武士が馬に乗ってやってきて、施餓鬼会の終わったことを知ると、がっかりしながら帰っていった。それを見た蘭溪道隆は、急いで彼を呼び戻させ、もう一度、施餓鬼会をすると、武士は大変喜んだ。道隆が武士の名を聞くと、梶原景時の霊であると言って消えてしまったという。そこで建長寺では以降、7月の施餓鬼会の後、もう一度施餓鬼会を行って景時の霊を慰める梶原施餓鬼会が行われる(『子ども風土記』)。施餓鬼会というのは餓鬼道におちてしまった死者を救済するため、餓鬼に食べ物を施す仏事で、近世以降は無縁仏に対するものが多くなった。現在は七月あるいは八月のお盆の時期に行われることが多い。梶原景時は鎌倉幕府の成立に尽力した頼朝の側近で、頼朝の死後、討伐されてしまった御家人である。「判官贔屓」に代表されるように、あまり良くは言われない人物であるだけに、建長寺に残るこの説話は興味深い。
ちなみに冬に食べるとおいしいけんちん汁は、大根やにんじん、ごぼう、里芋、菜っ葉や豆腐をごま油で炒めて作ったすまし汁であるが、この語源は建長寺であると言われている。昔、道隆が精進料理を作って出た野菜のくずを集めて作った「建長寺汁」が「けんちん汁」になったという(『子ども風土記』)。
背後の勝上ヶ嶽(じょうじょうがたけ)の山上には、遠州引佐より勧請した鎮守の半僧坊大権現が祀られている。また境内には江戸期の豪商で東廻り航路を開いたことで有名な河村瑞賢の墓がある。
◇建長寺の塔頭
塔頭とはおもに禅寺において高僧が死去した後、その墓塔を守るために作られた小さな寺院のこと言う。塔所(たっしょ)とも呼ばれ、塔頭を守る人を塔主(とっす)と言った。塔頭はやがてその門弟が相続するようになり、現在は大寺院の中の子院を指す言葉となっている。
鎌倉では過去には寿福寺、大慶寺をはじめとして禅寺に限らず、塔頭を持つ寺院は多く存在したが、現在はこのような支院を持つ寺院は建長寺・円覚寺と浄土宗の光明寺のみである。
建長寺の塔頭はかつて49を数えたが、室町時代になると塔頭の乱立が問題にもなったようで、寺勢の衰微とともに、そのほとんどは廃絶し、現在は10を数えるに過ぎない。
円応寺・回春院・華蔵院・正統院・西来庵・禅居院・長寿寺・天源院・同契院・宝珠院・妙高院・龍峰院
開山の蘭渓道隆の塔所は西来庵である。塔頭は高僧の墓所を守る寺院であるため、基本的に拝観することはできない。